「私」は、ただ「反応」しているだけ。

アラフォー独身女子(彼女はいます)。「人生これでいいのか?」と思いながらも、「毎日楽しく暮らす」のが1番の望み。

「能動的」に読みたい。

 

 

月に1度は宝塚ライブビューイングへ行くサイクルになっているけれど、来月は『霧深きエルベのほとり』の予定。

 

それを潤色・演出するウエクミ先生が、作品について京都新聞の夕刊にコラムを書いていた。

(Twitterに上がっていたものを読んだので、日付はわからず。)

 

 

実際演出してみて学んだことの中の一つ。それは、いつもの自分は台詞を短く書きすぎる、ということだ。菊田先生の真骨頂は台詞の上手さで、ありふれた単語ばかりを一見無駄に繰り返したり重ねたりしている長台詞が、たまらない名台詞に聞こえたりする。私からすると、「俺は・・・俺はよう」でなくて「俺は」でいいと思ってしまうが、役者がその余計な言葉を声にしてゆく、揺蕩う時間が、役者の心の整理にぴったりと合って、必要な感情はコレだよと優しく役者を導いてくれる。

 

上田久美子

 

 


これを読んで、自分は「俺は・・・俺はよう」派だ!と思った。


田中美津が、浄瑠璃だったか義太夫だったかについて、必要性があるとは思えない「ああ」とか「ええ」は、きっと歌い手さんが気持ちいいという理由だけであるのだろうと言っていたのと同じだなと思った。

 

 

一字たりとも気の向かない、あるいは実感をともなわない文章を書き飛ばしたら自分はオシマイだと思って

 

中島梓

 


というのも同じ部類な気がする。

 

これまでこのブログの他には、自分の文章を発表する機会なんてmixiくらいだったのに、私はなぜかこの2つの言葉を折に触れて思い出してきた。
文章のことに限らず、そういうちょっとしたことを大切にしたいと思って、そういうことを大切にしなければ感受性が衰えるような気がして。


私の彼女は、細かい言葉のニュアンスなんか気にしない人で、つきあい始めた頃は、私が話したことを他の人に伝えるときに、私が選んだのではない言葉に勝手に換えられるのが気になって、しょっちゅうそうじゃない!と思っていた。

でもそのおかげで、私の選んだ言葉が、私の感覚どおりに、私の意図したとおりに伝わる訳ではないということもよくわかったので、気楽に言葉を選べるようにもなったけれど。

 


「俺は・・・俺はよう」派だ!と自覚したら、自分が読みたい文章像がわかった気がした。

 

明確に情報を求めているとき以外では、書き手の個性を制限して誰にでも読みやすく工夫された文章とか、内容を要約してくれた小見出しとか、そういうものは私にとってはむしろ少々邪魔なものなのかなと思った。

書き手の個性が感じられる、情緒がある、ちゃんとその人の中から出てきた言葉だと思える、そういう文章を求めているんだと意識することができた。

 


あと、私は文章を読むときに頭の中で音にして読んでいるのだけれど、最近そういう読み方ではなく、視覚的に読んでいる人もいるのだということを知って驚いている。

そういう読み方は、速読など通常モードではないものだと思っていた。

 

ネットで日々大量の情報に触れる昨今は、そういう読み方の人が多くて、それはそれで問題もあるらしいのだけど、そもそも私にはそういう読み方ができない。

 

だからこそ「俺は・・・俺はよう」派なのかもしれないけど、そんな私でも、目次や見出しなんかがあると、ざ~~~~~っとスクロールして、斜め読みができてしまう。

とてもわかりやすいし、わかったような気にもなるけれど、読んだという感覚は薄い。

 

出版されているエッセイなんかだと、そういう細かすぎる見出しはなくて、読者がそれぞれ自分なりの小見出しやキーワードを読み取ったり、または読み取らずに丸ごと味わったりするのかなと思う。

 

そういえば、『一〇三歳になってわかったこと~人生は一人でも面白い~』(篠田桃紅著・幻冬舎)は、短いエッセイが集めらているのだけど、なんとその短いエッセイ1つ1つに要約がついているのだ。それがレビューですごく不評だったので、そんなに批判しなくてもと思いつつ読んでみたら、ほんと~に邪魔でしょうがなくて、手で隠しながら読んでいるくらい。

 

読書やその他の鑑賞って、結局は自分と対話することが面白いというところがあるのではないだろうか。自分がどこに反応して、どんなところが心に残るのかっていうのがやはり醍醐味なのではないのかと思う。

 

田中美津の言葉は、ノートに書き留めてあるかと思いきや探しても見当たらず、私の頭の中で繰り返し思い出されていたようで、読んだ当初はそれほど心に響かなかったのかなと思うと感慨深い。

 

ウエクミ先生の夕刊には「行きつ戻りつ、台詞は揺蕩う」というタイトルがつけられていたけれど、さらに細かく「かねてより心惹かれていた脚本」、「実際の演出で学んだこと」、「95分の中に詰め込むスキル」、「生理に見合う時間が要る」などの小見出しがあったら、私が「俺は・・・俺はよう」というキーワードにこれほど感銘を受けたかどうかは疑問だ。

 

受動的に読めてしまうのはとっても楽なのだけど、楽しみは減ってしまうなと思う。

自分なりのキーワードや見出しを見つけるのが楽しいのだろうし、特に何を読み取るということもなく、ただしばらくその文章の中に入るというのも好きなのだろう。


世の中の流れは、今後もますます発信する側が増えて、大量のコンテンツの中から選ばれるために読みやすいものが増えていくのだろうけれど、そしてそれはとってもありがたいのだけれど、私は昔ながらの(?)エッセイを求めていたのだなと思った次第。

 
とりあえずは、まだ完読していない、少年アヤ著『ぼくは本当にいるのさ』、片桐はいり著『もぎりよ今夜も有難う』・『グアテマラの弟』、石田ゆり子著『C'est Joli セ・ジョリ ここちいい毎日』、千葉真知子著『食べるクラシック』を読もう。
けっこうあるなぁ・・・。楽しみ。